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2007.07/04(Wed)

ゴーマニズム宣言EXTRA パトリなきナショナリズム 

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小林 よしのり (2007/06/14)
小学館
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パラオ取材日記、ザ・樹海、沖縄戦編、そして、パトリなきナショナリズムと盛りだくさん。なかでも、パトリなきナショナリズムは秀逸である。元々小林よしのりはリベラルな自由主義者である。競争社会歓迎、自分は勝ち残ることが出来る、と公言していた。実際、勝ち残るだろう。そして、郷土という村社会的な倫理が嫌いで、東京のような人間観のつながりが希薄な場所が好きだという。

余も同じだ。余も地元が嫌いである。正確に言うと、地元の目が嫌いなのである。近所の人間が余を知っていることが嫌いなのである。勝手な想像をされることが嫌いなのである。よく知りもしないのに、近所に住んでいるから親しいなどというのは傲慢ではないか。むしろ空気のように扱ってもらいたい。余もそのようにする。おそらく、余と同じ考えの人間は多いはずだ。だから、マックとかジャスコとか、顔の見えないシステムが流行る。いずれ、人と人の関係は今よりも希薄になり、どこまでが必要で、どこからが余計か、明白になることだろう。だが、現在はそうではない。だから、余は上記のような時代になることを念頭に置きつつ、取り敢えずは人間関係を円滑にするための社交辞令を重んじているのだが……

話がそれた。小林よしのりは自由主義者で郷土が嫌い。しかし、社会を思うとき新自由主義、市場競争、個人主義は良くないという。共同体、村社会的な地元の倫理感覚のようなものが必要だととく。その理由は、地元共同体(パトリオティズム)がないナショナリズムは危険だから、というのだ。アメリカのように、多民族国家は外に敵を作ることでしか、ネイションとして団結できない、そういったナショナリズムは暴走する、という。そして、日本も共同体をなくした、孤立した民が団結するために排外的ナショナリズムに陥る危険性を示唆するのである。

果たしてこの分析は正しいだろうか? ある人にとっては正しいが、ある人にとっては正しくないと言えるだろう。例えば、当の小林よしのり氏などは郷土的倫理が嫌いで、東京のような自由主義、現在の競争主義が住みやすいと言っている。しかし、排外的ナショナリズムに走ることもなく、充分な平衡感覚を持っていると言える。もし、彼のような考え方を持った人間が多くあるのであれば、必ずしも新自由主義、市場競争原理が悪いとは言えない。

教育とは確信犯を創ることだと余は思う。社会の不合理に流されるのではなく、その不合理をふまえつつ、おぼれぬ人間を創ることだ。不合理の流れを正確に見抜ける人間を創ることだ。そうすれば、不合理自体は変えられずとも、不合理の中で最善の選択を行うことが可能になる。そういう人間を多く創れば、社会の不合理もだいぶ緩和されるのではないか? なぜなら、社会の不合理とは人間が生み出しているものが大半だからである。

オススメ度: レベル5
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テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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