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2007.08/28(Tue)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫) プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)
マックス ヴェーバー (1989/01)
岩波書店
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前に紹介した小室直樹の資本主義原論、民主主義原論、日本人のための憲法原論の底本ともいえる希代の名著。ただ、よく世に言われているように難解である。というのも、キリスト教史の知識がないと、飛び交う単語がちんぷんかんぷんだ。高野山、密教、最澄、曼荼羅、空海、華厳経、真言宗、禅、阿弥陀如来、延暦寺、と仏教にたとえるならばこのような単語がオンパレードである。

マニアックなところは読み飛ばすしかない。
それでも、資本主義とは何なのか? その歴史的発展を学ぶならば、これよりいい書物はあるまい。

では余が理解した範囲で、近代資本主義を限界まで簡単に説明してみよう。

資本とは、それを元手にして資産を増やす為の資産である。もっとわかりやすく言うと、金を増やすために用いられる金である。資本主義とは、個人が自由に金を動かして、個人の金を増やすことをよしとした社会である。だから、私有財産を禁止する共産主義社会は資本主義社会ではないのである。

資本主義も二種類に分けられる。近代資本主義と前期資本主義だ。同じ資本主義でも、この二つは全く別物。前期資本主義はそれこそ、いつの時代も世界各国に見られた。しかし、近代資本主義はまさにヨーロッパの一部とアメリカにしか生まれなかった。

前期資本主義が発展して近代資本主義になったのかと言えば違う。前期資本主義とは全く別の経緯で近代資本主義は生まれた。近代資本主義は金儲けを微塵も意図していなかった。それなのに、金儲け至上主義になってしまった。ここが肝。

近代資本主義の原型はカトリックの修道院である。修道院は俗世にまみれた教会の権威を維持するために、禁欲と純粋な祈りを真面目に行い、その高徳で以て人々を救おうと考えた。修道院で行われていたことは祈りと神のための労働である。来る日も来る日も、神のために祈り、神のために働く。その繰り返しが修道院的禁欲である。仏教のように断食をしたりすることではない。

そういった修道院的禁欲と勤勉を俗世に持ってきたのが宗教改革(16世紀)である。今まで修道院の中だけで行われていた禁欲と勤勉が一般大衆にまで広がった。これを世俗的禁欲という。彼らは一生懸命に働いた。すると、意図せざるして金が貯まる。金が貯まったから仕事をさぼるということもしない。貯まった金は公(神の意に適うような)の為に使い、またひたすら働く。なぜなら、金は勤労の証であり、神の御心にそくした証でもあるからだ。

では、全員参加の勤労は何を産んだか? 例えば資源が10あるとする。以前のような勤労に重きを置かない世界では10の資源中5とか6を消費していた。しかし、皆が勤労になり、10ある資源を10使ってしまった場合どうなるか? 合理化、計画的生産、そうやって、10の資源を他と争い奪い合うことになる。少しでも多く資源を活用しようとした結果、合理化、計画的生産の一環として産業革命、植民地支配、などが生まれた。

10の資源を使い切ろうとする社会が生まれたのである。これが近代資本主義だ。では、こういった社会的な枠組みが出来上がるとどうなるか? 想像してみて欲しい。10の資源のうち、5を使っていた社会では、残りの5は誰のものでもないのである。簡単にいうと、腹が減れば誰のものでもない山に入り、山菜やイノシシを狩って喰うことが出来た。しかし、10の資源のうち、10を使い切ろうと努力する社会ではそうはいかない。山は誰かの所有である。ただの山にしておくのは非効率的だ。牧場か畑にして生産力を上げよう。10の資源を使い切る社会では、腹が減ったからといって勝手に入れる山がないのだ(その代わりに福祉があるというが……)。ここに、神のためであろうとなかろうと、全力で働かないと儲けることが出来ない社会が完成した。これが近代資本主義の社会である。

しかし、最近はこの神のために働くという精神が失われてきた。多くの労働者にとって、労働とは神の御心にかなう喜びではなく、ウェーバーが言うように単なる「経済的強制」としか感じられないのではないか?

そう考えると、今世界中で起きている二極化は当然のように思えてくる。資本主義というシステムが牢固として完成した今、この資本主義という機関車から飛び降りるのは不可能となった。資本主義の精神に普遍性がなくなった今、こんな汽車から降りたい人間も、降りることは出来なくなった。黙って汽車が止まるのを待つしかなくなった。そして、やはり宗教的精神がなくなったが、利潤追求がシステム化されたこの社会で勝ち残ろうとする人間は相変わらず機関車の釜に石炭を放り込む。

利潤追求、労働が最低条件となってしまった社会に於いて、働くことが嫌いな人間はその正当性を失ってしまう。ただ、資本主義精神の残滓が非労働者に対して盲目的な倫理的批難を浴びせる。働かざる者にとって、この世は住みにくくなったと言えないだろうか? 昔は生命を繋ぐだけの山菜や肉を野山からとってくればいいだけだった。だが、現在、ものは確かに溢れ、交通の便は優れ、インフラも整っている。しかし、一人頭の労働時間は劇的に伸びた。嫌でも一生懸命働かなくては生きられない世の中になった。

余は今の先進国のこの状況は過渡期的な現象ではないかと見ている。則ち、二極化が完成した暁には、近代資本主義的な社会はもはや存続しない。汽車はそのスピードを落とすであろう。貧しい人間はとことんまで貧しいが、一日何時間も働かないですむ、そういった前期資本主義的な世界に戻ると思う。なぜなら、多くの人間から勤労意欲が失われれば、10の資源を使い切ることは出来なくなるからである。労働を極力忌避する労働者間には必然的なワーキングシェアが行われ、生産の計画性も、合理化も、そういった非勤労な労働者を前提とした形でしか組めなくなってゆくであろう。

そもそも、貧困を恥ずべきこととするのは、宗教的資本主義の精神である。貧困は神の為に労働をせぬ証なのだ。しかし、時代は変わった。人間の精神、考え方も変われば、神も死んだ。二極化が完成した場合、貧困は決して恥ずべきことではなくなる。なぜならば、周りの多くの人間が、平均的人間が貧困だからである。もっと言ってしまえば、貧困は貧困ではなくなるのである。現在の目からみれば貧困であろうが、その時になれば、貧困は人並みなのである。

そうなる世界が善い悪いとはつゆ言うつもりはない。人間の幸福感は相対的なものに過ぎぬと思っているからである。

以下の書を読むと、この書物も多少分かりやすくなる。お勧めである。

小室直樹の資本主義原論
悪の民主主義―民主主義原論
日本人のための憲法原論

オススメ度: レベル4
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テーマ : オススメの本 - ジャンル : 本・雑誌

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