07月≪ 2017年08月 ≫09月

12345678910111213141516171819202122232425262728293031
--.--/--(--)

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【編集】 |  --:-- |  スポンサー広告  | Top↑
2007.11/25(Sun)

排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異 

排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異 排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異
ジョック・ヤング (2007/03)
洛北出版
この商品の詳細を見る


面白そうだな、と思って、アマゾンで買った。届いてみてびっくり。分厚い。541ページもある。内容も濃い。

本書の表題でもある「排除型社会」とはなにか。20世紀初頭から、70年代ぐらいまで続いた「包摂型社会」と対比して名付けられている。イギリスを筆頭に「ゆりかごから墓場まで」のような社会福祉が完備され、国民が国家に手厚く保護されていた高福祉高負担の社会が昨今失われた。今はむしろ、自由主義、市場原理が支配する、金のある人間は高サービスを受けられて、貧乏人は最低の暮らしを強いられるという格差社会になった。

市場原理、能力主義、自由主義、とは何か? 自明性、合理性を追求したものではあるまいか。自明性とは人々のロールプレイ、役割を決めつけることである。一種の階級化である。学歴社会の最終形態のようなものをイメージして欲しい。つまり、いちいち一人一人の能力を吟味するのは非合理的なので、学歴、家柄、見た目、そういったもので人間を判断する。人々の役割が自明であることは合理的であることである。合理的であるということは、一々考える必要がない、自明であるということだ。

別の側面に言及すると、「包摂型社会」は社会的な道徳、規範意識、通念から逸脱する少数者達を自らの内に取り込もうとする社会。すなわち、犯罪者がいれば更正させ、社会に適応させようとする社会。社会から逸脱する少数者は、少数であるが故に、むしろ、社会の統合に寄与していた。しかし、一定以上の豊になった後期近代社会では、選択の可能性が広がった。信念や確実性が疑われるようになった。簡単に言うと、豊になるという国全体の衝動が機能しなくなった。その結果、本書でいうように、「絶対的な価値観が相対的な価値観に包囲されてしまい失われる」という事態になった。

著者であるジョッジ・ヤングはもともと犯罪学者だ。第二章からは、後期近代における犯罪を詳細に述べている。犯罪そのものよりも、犯罪の舞台である社会について、人々が捉える犯罪というものについて分析を加えている。

犯罪と貧富は関係ないという。今現在の、この豊かな時代にこそ犯罪は多発している。例えば、合衆国の殺人率は50年代の倍である。どうして、豊かな時代に犯罪が増えるのか? 相対的剥奪感が要因だという。相対的剥奪感とは、年収1千万円の人間が、年収1億円の人間と自分を比して、感じる剥奪感である。相対的剥奪感の因子は平等のパラドックスである。人々が平等になればなるほど、平等が当たり前になればなるほど、小さな差異が気になって仕方なくなる。昔は、上から下まで様々で不平等が当然であった。当然であるから不満も剥奪感も起こらない。しかし、平等が当然、というイデオロギーを持った社会では、少しの差異で不満や剥奪感が噴出してしまうのだ。これが、平等のパラドックス。努力すれば豊になれるというイデオロギーがさらに拍車をかける。

後期近代の特徴として、多様性と、寛大性というキーワードがある。多様性の性質の変化。寛大性の逆転。説明すると本書をまる写しする羽目になる。

一言で後期近代の問題点を言ってしまえば、資本主義の行き詰まりというところに帰結すると思う。本書ではこう表現されている。「公教育は、子供たちを労働者に仕立て上げるために、『キャリア』や『能力主義』、『成功』という観念を植え付けている」と。まさしく、資本主義の精神が失われた状態で、資本主義的システムに子供たちを縫い込んでいる。その結果が笑えるw
「都会のやる気に溢れた若者たちは数十億ドル規模にまで成長したドラッグ経済に魅了されている。何より、彼らはアメリカンドリームを信じているのだ。成功を追い求める麻薬密売人や犯罪者はアメリカ人の古典的な階級上昇モデルをそのまま実行しているのだ。つまり、リスクを負い、勤勉に働き、幸運を祈っている。勇敢に未知のフロンティアを開拓する。そこは、富と名声、そして、破滅が待ち受けている場所である」
後半部分だけなら、それこそ西部開拓時代のアメリカンドリームだ。日本人にアメリカ人的夢想癖がないのは幸いだ。もっとも、古典的資本主義の精神も神の名の下に原住民を殺しまくる。現代は資本主義の名の下に、箍が外れ、道徳なんか糞くらい、成功したものが勝ち。今も昔も大して変わらんな。大体、自分のことを道徳的だと思っている人間にろくな奴はいない。

そういった犯罪者を取り締まる法の定義がまた面白い。
「法とは金と権力を持つものが、金も権力も持たないものを監視するための装置である。明らかに禁酒法は、熱心な禁酒家たちが酒飲みたちを取り締まるために制定された法律である」
つまり、我々がいい思いをしようと思ったら、努力して禁酒家になる躾を受け、また禁酒家であることを守り続けなければならない。

しかし、逆に言うと後期近代のカオス的状況は、こういったモラルからの脱出とも捉えることが出来る。左右の論壇が、「都市はマニュアル化、均一化された入れ替え可能な空間。個人を否定する場所」と嘆くが、本書の言うとおり「真の個人性は、都市の非人格性という背景があってこそ生じる」のである。今でも田舎とか村落的繋がりの強い地域では、地域における性格が個人の人格を色づけている。無色透明に近い都市だからこそ、本当の個人性が形成される。慧眼なり。

著者は結論として、正しい能力主義が行われていないから、社会の不幸が存在すると言っている。だが、正しい能力主義とは自然の最終形態だ。それ以外に正しい能力主義はなかろう。どうも著者もそれを分かっているらしく、最後の章は些か無理矢理な感が否めない。散々後期近代は救いがない、と論じてきて、この終わりはないだろう。

この社会は知れば知るほど如何ともし難い脱力感を味合わせてくれる。じゃ、社会を捨てれば幸福か? と言われればそうではない。脱力感は人生そのものに湧いているものなのかも知れない。


プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来

オススメ度: レベル4
FC2 Blog Ranking

テーマ : 読んだ本。 - ジャンル : 本・雑誌

【編集】 |  22:56 |  思想 社会科学  | TB(0)  | CM(0) | Top↑

コメントを投稿する

URL
コメント
パスワード  編集・削除するのに必要
非公開  管理者だけにコメントを表示
 

この記事のトラックバックURL

この記事へのトラックバック


 | BLOGTOP | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。