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2008.02/07(Thu)

政治的なものの概念 

政治的なものの概念 政治的なものの概念
C.シュミット (2000)
未来社
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昔のことを思い出した。余は政治家になろうと思って、某衆議院議員事務所を訪ねた。その時、衆議に「君、政治とは何かね?」と聞かれた。政治とは何か、というのは、それこそ、芸術とは何か、という問に匹敵するくらい、色々と言われているものである。つまり、衆議は余がどういった解に傾倒しているのかを知りたかったのだろう。余はこう答えた。
「はい、政治とは敵を作ることであります」
衆議はどうも気に召さなかったようだ。「おれは対話することだと思っている」と答えられた。

はっきり言ってかなり難しい本。内容が難しい上に、おそらく訳が拍車をかけている。これが訳されたのが1970年。この付近の訳書は、格調高いかわりに難しい。どこまでが主語で、どこからが述語かわからない。外国語を訳すように、andで繋がった部分を探したりと、えらい暇がかかった。

内容は、題名の通り、政治的なものとは何か、というものを明らかにして、経済が支配する時代、国家や戦争が解体されてもなお残る、政治的なもの、を浮き彫りにしようと試みているもの。

シュミットは民主主義についても一言持っている。というより、民主主義というものを抜きにしたら、この書は陳腐きわまりないものとなる。シュミットは言う。18世紀までは社会と国家は分離していた。社会の上に国家が君臨していた。社会と国家が浸透し合うという表現を用いて、民主化を分析する。民主化された共同体に於いては、国家的なことが則ち社会的なことであり、社会的なことが取りも直さず国家的なことになる。民主的共同体に於いては、宗教、教養、経済等が中立であることをやめてしまう。こういった国家を全体国家(全体主義とは違う)と呼ぶ。つまり、全体国家に於いては、政治的なこととは国家を指すものではなくなる。

全体国家(当然、現在の日本も全体国家と呼べる)では国会や政治家が行っていることだけが、政治的なことではないという意味だ。最近で言えば、食品や道徳も、政治的な意味を持つことになる。

でも、それだと、全てが政治的になってしまい、また無意味な定義に陥ってしまう。そこで、シュミットは「友・敵」という概念を持ち出す。道徳の定義が「善・悪」、経済の定義が「利・害」であるように、政治は「友・敵」で出来ているという。政治的なもの、例えば18世紀ならば、王家と王家、の友・敵関係、全体国家のなかでは、国家と国家の友・敵関係、もしくは、内戦という形で友・敵が形成される。友・敵関係が形成されれはそれは政治的な意味を持つと言うことだ。冷戦下では東西か。いずれも、集団対集団でなければならない。個人的なことは政治的なことたり得ない。戦争を取り上げ、
「戦争とは、経済的、道徳的対立が政治的対立にまで高まり、友・敵という闘争結束を招来するものである。そこでは、もはや純経済的、純道徳的な対立はなく、政治的対立がある。問題はどこまでも友・敵結束が現実的可能性、ないしは現実性として存在するか否かであって、人間的動機は問題ではなくなる」

もちろん、友・敵関係は戦争だけではない。第二次大戦を経験した我々とすれば、経済で全ての片が付くとは考えていない。それでも、経済がもつ権力が国家間にいかに重要かは理解できる。シュミットも、そういった経済を政治的なものと呼び、戦争の代わりに、信用の停止、原料封鎖、経済制裁等を政治的な友・敵関係としてもちだす。「戦争」という言葉を用いないで、「批准・処罰・執行・平和化」と呼ぶ。「敵」という言葉を用いないで、「悪の枢軸・独裁者・テロリスト」と呼ぶのは欺瞞であり、新たな「友」の形成の仕方に過ぎない。我々は日本政府やブッシュが、フセインや金正日を独裁者とかテロリストと呼ぶのを欺瞞と見抜いているが、シュミットはこの時点から問題視していたのだ。いつの時代も政治的にあるものは友・敵だ。

北朝鮮は我々から見て悪である。しかし、ただ、悪い悪いと叫んでいるだけは問題は解決しない。いかに、国内的に、国際的に友・敵関係を構築し、最終的に勝利するかを考える必要がある。

シュミット曰く。
「この『友・敵』区別をなしえず、ないしはなしたがらないことが、政治的終末の徴候として現れる。ロシアにおいては、没落していく諸階級が、革命のまえに、ロシア農民を、善良、勇敢かつキリスト教的な帝政農民であると美化した。フランス革命の前には、フランス貴族社会が「天性善なる人間」を夢想し、感動なまでに有徳な民衆を夢想した。すなわち、特権者達は革命の匂いさえかぎつけていなかった。1793年が、もう足下に来ていたというのに、民衆の善良さ、純朴さを口にしていたさまは、見るも奇妙である」

この書は戦前に記された。が、敗戦後の日本国民に向けたような言葉が載っている。

「無防備な国民には友しか存在しない、と考えるのは、馬鹿げたことであろうし、無抵抗ということによって、敵が心を動かされるかも知れないと考えるのは、ずさんきわまる胸算用であろう。人々が、あらゆる美的ないし経済的な生産性を断念することによって、世界を、たとえば純道徳性の状態に移行させうるなどということは、誰一人可能だとは思うまい。しかし、はるかにそれ以上に、一国民が、あらゆる政治的決定を放棄することによって、人類の純道徳的ないし純経済的な状態を招来することなどはありえないのである。一国民が、政治的なものの領域に踏みとどまる力ないしは意志を失うことによって、政治的なものが、この世から消え失せるわけではない。ただ、いくじのない一国民が消え失せるだけに過ぎないのである」


オススメ度: レベル4
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テーマ : これでいいのか日本 - ジャンル : 政治・経済

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