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2008.02/26(Tue)

現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 

現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書) 現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)
見田 宗介 (1996/10)
岩波書店
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1996年に書かれたもの。まったく色褪せない。余が先日買ったものは24刷、2006年発行である。

構成も秀逸である。情報・消費・環境・資源・貧困を巧みに関連づけ、循環するように語る。上に挙げた五つの事柄は、一見するとバラバラの現象であるが、現代社会視点から論じると、一つの現象でしかないのである。これらの問題がまとまって、現代社会という現象が起きているといっても良いかもしれない。

我々は近代を乗り切れたわけではないが、ポスト近代という思想を打ち立てた。ポストモダンとは、言ってしまえば、アンチモダンである。近代が是としたことを否とする思想である。本書にもポストモダン的視点は多々出てくる。冒頭の言葉はこうだ。

現代社会は、近代社会一般とは区別されるような、新しい時代を展開する。

近代社会とは、思想面では個人の解放、自由、平等、など。物理面では、自然を征服し、人々の暮らしを豊かたらしめ、資本化、合理化、などを推進するものとされる。しかし、現代社会は、もはやそれだけでは回らなくなってきたというところに注目する。

では現代社会の特徴とは何だろうか。
本来消費とは、必要によってもたらされるものである。だが、生産が必要を追い越せば、必要だけではものは売れない。必要以上のものを買わすには何をすればいいのか? 情報である。広告、宣伝という情報を流し、必要でなくとも、必要であると人々に錯覚させることが肝要となる。商品に魅力を与え、消費を欲望するようにし向けなくてはならなくなる。これが、悪いと言っているわけではないのだ。大衆が消費し、欲望を満たすことは、資本、生産側の欲求を満たす。大衆が資本の再生産過程の一環に組み込まれているからといって、不幸というわけではない。もし幸福ならばそれでも全然構わない。蜜蜂が花の蜜に誘われて、レンゲやナタネの生命再生産過程の一環に組み込まれているからといって、不幸なわけではない。ただ、我々の資本再生産過程は、蜜蜂と花のようにサステイナブルなものなのであろうか? また、花の蜜を運ぶ蜜蜂ほど、幸福なものなのであろうか?

話は環境に移る。環境と経済なんて関係あるのか? 例として、マメコガネムシをあげる。マメコガネムシは作物に被害をもたらす害虫として、徹底的に農薬が散布され殺された。しかし、死んだのは虫だけではなかった。リスや鳥も死んでしまった。鳥は虫の最大の天敵だったにもかかわらず。で、ここからが重要。引用する。

「害虫を防御するという一つの必要のための方法が、自然の鳥たちの手から離れて、商品経済のシステムの中に引き入れられる。つまり、ここでもまた一つの巨大な『マーケットが開拓される。』これは〈根元的独占〉という名で、イヴァン・イリイチが呼んだメカニズムである。伝統的な意味の『独占』は、一つの企業が、(あるいはごく少しの企業が、)市場から他の企業を排除することをとおして、企業の競争の自由を否定する。〈根元的独占〉は、商品システムというものが、必要を充足するための他の方法を排除してしまうことをとおして、生活の仕方を選択する自由を否定する」

天敵である鳥がいなくなってしまえば、農家は嫌でも農薬を買わねばならないのだ。このような例は他にいくらでも起こっている。例えば、薬が年々効かなくなる我々の体も、このシステムに組み込まれている。自然治癒が出来なくなり、薬に頼らざるを得ない。薬はさらなる薬を呼ぶ。資本主義のシステムもそうだ。回したくなくても、回さねばならぬシステムが出来上がってしまっている。これを念頭において、次の貧困に移って欲しい。

「貧困は金銭を持たないことにあるのではない。金銭を必要とする生活の形式の中で、金銭を持たないことにある」と著者は言う。これはどういう意味か。

我々は「世界には一日に1ドル以下の所得しかない人が12億人いる」とある種の憐憫の情を持って語ることがある。そして、善意でこれを救わねばならないと考える。このことがすでに、資本主義の詭計に陥ってしまっているとは知らずに。

著者は中国南部の少数民族、ヤオ族の例を出す。ヤオ族は百歳を越えても元気な人が多いことで知られている。長寿の秘訣は「悩みがないこと」。温暖な気候と汚染のない空気。食べ物が自然で低脂肪・高栄養価。畑仕事で体が鍛えられて飲酒、喫煙率が少ない。悩みがなくて百歳くらいまで元気というのは、幸福と考えて良いだろう。彼らの年収は四千八百円。一日0.13ドル。

アメリカインディアンもそう。アフリカの土人もそうである。彼らの土地を開拓し、工場を建てて、一日に1ドル以上消費させようとした瞬間に、彼らは多くの幸福の次元を失ってしまう。だが、資本主義は「1ドル以下の不幸な人間を救うため」という虚言を弄し、善良な先進国の民を騙し荷担させ、非資本主義のなか暮らしている住民から摂取を行う。

ドミニカの耕地をサトウキビ畑に変えてしまった。確かに原住民には1ドル以上の給与を支払ったとしても、そこで、彼らは自由な耕作が出来なくなった。このままではまずいと、原住民達が契約を破棄して、自分たちの作物を作ったら、軍隊がやってきて作物を全部ぬいてしまった。つまり彼らは、サトウキビ畑で働き、そこで得た貨幣を使って食料を買う以外に、食料を調達する手段を失った。貨幣を稼ぎ、貨幣を使用してしか生活が出来なくなってしまったのである。著者は言う。「彼らが以前より、貧しい食物しか手に入れることが出来なくなっても、彼らは統計上所得を向上させたことになる。一日1ドル以上という貧困のラインから救い上げられた人口の統計に入るかも知れない」

日本も一歩間違えれば、ドミニカのようになっていたかも知れない。豊かさと引き替えに、過去幸福とされていたものの多くを失ったのは事実である。日本は幸い資本主義的豊かさを失わずに済んだからよかったようなものである。資本主義的豊かさと、その他の次元の幸福を両立することは可能なのであろうか。他国から資源の摂取という形をつかえば、可能かも知れない。その他の形では?

本書は最後の、情報化/消費社会の転回で締めくくる。この章は非常に哲学的である。簡単に言うと、魂の充足を求めるのである。生産、消費という分かりやすい幸福を追求する限り、資源の問題や、他社会からの摂取は必然とならざるを得ない。しかし、魂の充足のための、例えば、美しい絵画や、詩などは、資源の消費量に比例せず、人々に感銘を与える。

しかし、余はこれはかなり難しいと考える。不可能だと思う。金銭や所有物の多寡は他者と比較して得られる幸福であり、芸術的感動は、内面幸福だからである。同じ幸福と一言で言っても、比較幸福と、内面幸福は別物ではなかろうか。例えば、いくら金を持っていても、友達が一人もいない、とか言うのはあまり幸福とはいえない。内面的に充足していないからである。友達がたくさんいても、その友が皆金持ちになってしまった場合、なお友でいつづけることが可能であろうか? 比較幸福の原理である。友人関係に、似通った地位のものが多いのは、比較して安心を得るためである。資本主義が世の中を不幸にしているのは、人々の財貨の多寡を加速させたからだ。平等という前提のもとの格差が、相対的剥奪感を産んでいるのである。

そう考えると、身分制を作った過去の人類はなかなか頭が良かった。同じ身分であるということが前提であれば、相対的剥奪感は減少するからだ。大君が非課税で代々東京の一等地におはしますことを誰が批難しよう。我々はむしろ喜びすら感じる。しかし、隣のリーマンの家が自分ちより少しでも立派だと面白くない。人類は身分制を破壊してしまった。ならば、全員が同じような地位を得られるようにしなければ、不幸だけが残ってしまう。

あわせてご覧くだせう。
排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

オススメ度: レベル5
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テーマ : それでいいのか日本国民 - ジャンル : 政治・経済

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